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アーカイブズ資料からたどる大学基準協会創設期

 このコーナーでは、70年以上にわたる大学基準協会の歴史が詰まったアーカイブズ資料の一部を紹介しながら、本協会の職員がこれまでの活動やその裏にある想い等を考察し、みなさんにお伝えしていきます。

 大学基準協会(以下、「本協会」といいます。)は、1947(昭和22)年に創立し、70年以上の歴史を持つ団体です。事業の一環として、創立以来所蔵している各種刊行物や資料等の電子化、リスト化を行うことによりアーカイブズ化事業を進めているところです。資料は、刊行物から簡易なメモまで多岐にわたり、本協会の創立から現在までの歩みを私たちに伝えてくれるものとなっています。
 そこでここでは、第二次世界大戦後間もない、混沌とした時期にどのようにして本協会が誕生するに至ったのかを、2005年に刊行した『大学基準協会55年史』を主に参照しながら考察していきたいと思います。それを足掛かりにして、高等教育機関の質的向上のための組織の創立までの議論をたどっていき、当時の資料に記録されたメッセージの一端を見ていきます。

 当時、戦後の大学改革の一環として、アメリカ政府から教育使節団が派遣され、教育の質保証について「設置認可」と「適格判定」を明確に区別する考え方が当該使節団により示されました。この場合、「設置認可」とは教育課程や教員組織、施設・設備、財務状況などが一定以上の「量・規模」を備えているかを審査する事前チェックのシステムであり、一方「適格判定」とは、設置を認可されたのちの大学に対して、「量・規模」よりも「質」の観点から各大学自身の使命・目的を一定の基準に基づいて判定するものであること、そしてその基準は持続的に改良されるべきものであるという考え方を示しています。当該使節団による報告書は、本協会の創立の発端として重要な意味を持っていました。本協会の成立と深く関わるものとして、『大学基準協会55年史』には以下のように要約されて示されています。

水準向上のための協会――設置を認可された高等教育機関の質的向上のためには,高等教育機関が組織する各種の協会(associations of institutions of higher learning)が設立されなければならない。これらの協会の設立手続きとしては,①種々のタイプの高等教育機関を代表し,かつ,日本の教育界で尊敬されている教育者によって委員会を組織し,②この委員会が協会の創立委員を指名するとともに,協会への加盟の資格条件となる明確な要件を決定し,③要件を満たした学校の組織する複数の協会が,図書館の相互利用,教授交換,学生交換などにつき密接な協力を行うことができるようにする。

(『大学基準協会55年史』12~13頁)

 戦前においては、文部大臣の監督下でのみ学問の自由が認められていたにすぎなかったことへの反省から、戦後における民主化政策の中で「設置認可」とは分けて、「教育者によって委員会を組織」した上での「適格判定」の考え方を日本に導入するにあたり、その権限をどこに位置付けるかについて、大きく3つの方向から検討されるに至ります。
 まず、第一のものとしては、内閣直属の審議機関である「教育刷新委員会」によるものです。当該委員会は、教育基本法、学校教育法の制定に関する答申等により戦後の教育改革の実現に寄与したものであり、GHQに招かれたアメリカの教育使節団に日本側から協力する形で設けられた組織を前身とするものでした。
 第二のものとして、文部省内の委員会の一つとして組織する流れによるものです。しかし、戦前期に国家目的の遂行を旗印として高等教育機関の設置認可と監督の権限を掌握していた文部省主導の動きには、GHQ側の抵抗が強くあったといわれます。
 第三のものとして、GHQ傘下の「民間情報教育局(CIE)」(以下、「CIE」といいます。)の指導により民間専門団体を創設することが検討されました。
 結果的に、上記の内、第三のものを採用することとして、先に示したアメリカ政府の教育使節団報告書の内容に沿う形で、団体創設の実現に向けて動き出していくこととなります。大学基準協会の源流となるものです。そこでは戦後の大学制度改革の一環として、大学の設置認可とは別に適格判定(アクレディテーション)の考えが持ち込まれました。
 その後、この民間専門団体、すなわち本協会の創立に向け、大学設立基準設定連合協議会(以下、「協議会」といいます。)が本協会初代会長の和田小六(東京工業大学長)を座長として開催されました。それは、当時の国・公・私立の違いを超えて全国の大学の代表が集まるものとなりました。この時の和田座長の発言は現在まで脈々と続く本協会の精神を明確に表すものとなっています。その一部を以下に引用します。

この大学設立に対し基準を作るということがその終局の目的といたしておりますのは,要するに大学全体が集って自主的に又それを民主的にお互いを良くして行こうということなのであります。それが終局の目的なのであります。又それはこのアカデミックの問題に関する限り,大学自体が自主的の組織を作って互いの責任においてそれをやらなければ到底出来るものではないという信念の上に立っておるものなのであります。

(『大学基準協会55年史』66頁)

 この記録からは、当時の国・公・私立大学が一丸となって、戦前・戦中の画一的な体制を変えるために、戦後の新しい大学像を立ち上げる強い思いが込められていたことが分かります。そして、当時の協議会関係者が適格判定(アクレディテーション)のシステムをただ形式的に導入したわけではなかったことがうかがえます。
 また、和田座長の挨拶に続いて、CIEメンバー3名による講演が行われました。その中の一人であるイールズ氏による「大学設立基準適用について」と題された講演において、氏は大学を「盆栽」にたとえて解説している記録が残されています。わかりやすい日本文化を引用した一見ステレオタイプな表現にも思えますが、日本に合わせたアクレディテーションの考え方を模索していたであろう当時において、その比喩は示唆的にも思えます。1947年4月5日に発行された『大学基準協会会報 第一号』の中から以下のとおり引用します。

 我々はしばしば大学の基準なり、あるいは基準の適用ということを通じてすべての大学を皆一様にしてしまうというような間違った考え方をとるときがあります。それは全くそうでなくて、むしろ一度大学が大学と呼ばれるためにこういう最低の基準に適合した以上は、民主主義におきましては、我々はそのいろいろの差異を強調したいのであります。(中略)
 いい盆栽の種類の中には、松のみでなくして楓とか、そういう他の木も必要とします。それらの木がすべて同じ種類の木であってはならない。しかしそれらはすべていい木でなければならない。(中略)もし木が全体として非常に整っておるけれども、一つの枝が間違った方向に突き出ているときには盆栽の人達は木全体を捨ててしまわないけれども、それをいい木としてその一つの枝が正しい方向に伸びるように針金をもってくくります。(中略)いい盆栽は絶えず成長しつつある盆栽である。それと同様に大学基準協会が、その会員に絶えず各大学の自分自身の問題というものを研究させ、いろいろ整えていろいろ培い、いろいろ針金でくくってそれを発達させ、改良させるというような方向に、絶えず大学を奨励しなければならない。

(『大学基準協会会報 第一号』17~19頁)

 常に自立していながらも、絶えず見守り続けなければいつかは衰えてしまうが、真心をもって手入れをすることで、個性が伸びてゆく存在であること、また、その個性は一朝一夕に形作られるものではなく、長い歳月が必要であること。大学と盆栽との共通点を見出したこの一節は大変興味深いです。戦後間もない時代で現在とは社会状況は異なりますが、所蔵されているアーカイブズ資料の一節からは、変わることのない力強いメッセージを今もなお読み取ることができます。

注:上記の引用箇所については、旧字体を新字体に変えるとともに、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに変えて記載しています。会員大学におかれましては、以下のURLより資料を閲覧いただくことが可能です。

<参考文献>
田中征男『戦後改革と大学基準協会の形成』、エイデル研究所、1995年