『何者』【ブックレビュー#41】
2度目の登場となる、総務部の馬場と申します。アカデミックな書籍の紹介は他の職員に任せるとして、私は前回に引き続き、今回もフィクション(小説)をご紹介したいと思います。
【就職活動で露呈する脆さと「痛さ」】
今さらながらの超有名作です。第148回直木三十五賞受賞作。著者の朝井リョウ氏が戦後最年少での受賞ということもあって、文学界を飛び越えて巷で話題になった記憶があります。ですが、すみません、私は読んだことがありませんでした。お恥ずかしい。
本作は就職活動の仕組みや大変さというよりも、就職活動によってあぶり出される大学生たちの脆さと不安定さ、それと表裏の関係にある過剰な自意識のようなもの——本作に沿って言えば「痛さ」——を描いています。主人公たちは1つの部屋に集まって「就活対策」を行いますが、時間を経て仲間内でもその明暗が分かれてくることで、当初はある種牧歌的であったこの集まりも、グラスに詰められた氷が水滴を垂らして溶け始めるように、少しずつ形が変わり、微かな音を立てて崩れていきます。
大学生活は、自分を「何者」であるかのように思わせてくれる場所で、それを自己演出できる場所ですが、その閉じられた部屋の扉をノックし、宴の終わりを伝えてくるのが就職活動という現実だと、本作は静かに伝えてきます。
【私たちは「何者」なのか】
大学生の年齢で、すでに「何者」かである者はこの世の中のほんの一握りで、ほとんどの者は「何者」でもありません。一生懸命、「何者」かであるように振舞うことの「痛さ」に向き合うこと、それを受け入れて前に進むことの必要性を、本作は決して押しつけがましくはない温度で、読者のそばにそっと並べていきます。どんなに「何者」かの振りをしても、大学生活が終わればもうそれを見てくれる人はいなくなるのだ、その先にあるのは、痛々しい自分が一人だけで歩んでいく道だと。
登場人物の一人がたたみかけるこの台詞は、多くの自意識過剰の大学生(失礼)にとって胸に刺さる部分があると思います。それでも、観察者である読者にはまだ余裕があります。しかしながら、本作の最後には大きな仕掛けがあり、それが明らかになったとき、観察者として高みの見物をしていた読者の大学生は、いよいよ鼻柱を大きく挫かれてしまうのではないでしょうか。
高校の教科書で中島敦の『山月記』を読んだとき、鼻柱を大きく挫かれた高校生が、大学生になって、今度は『何者』に挫かれる。いやホント、小説って最高です。笑ってません。必要なんです、こういうことが。私も様々な小説に大きく挫かれました。
【変わるものと変わらないもの】
ここで私事を話せば、私が就職活動をしていた頃は、まだ「就活」という言葉も定着しておらず、今のように社会の一大イベントという雰囲気でもなかったように思います。就活サイトはありましたが、企業説明会は電話で予約、エントリーシートは手書き・郵送というのが主流だったと記憶しています。
本作が刊行された2012年の十数年前にあたるその当時、世の中は就職氷河期真っ只中で、主人公と同じく演劇にかまけていた私は当然のように就職活動に失敗し、中途半端な形で社会に出ていくこととなりました。本作はTwitter(現X)が物語の重要なキーアイテムとして登場し、ひとの心の複雑さを印象付けますが、当時はそのような「減圧装置」もなく、もやもやとした気持ちがもやもやとした形のまま、身体の隅に沈殿していくように感じられました。
しかし、本作を読んでいると、取り巻く環境こそ私の頃とは異なるものの、SNSの制限された文字数の向こうに隠れている彼・彼女らの心は、あの頃の私とそう変わらないようにも思えました。本作からさらに十数年が過ぎた現在、就職活動の形はより大きく変化していますが、一方で、やはりひとの心はそれほど変わっていないのではないかと思えます。
大学生は、今も昔も痛くてカッコ悪い姿のまま、それでも学生時代とは別の「何者」かになろうとがんばっている。採用面接を受ける側から、採用面接を行う側に立場が変わった私から見て、就職活動中の大学生たちは本当に真剣で、眩しいです。
あなたたちの何者かになろうとする努力は、なにものにも代えがたい。
かつて何者かになろうとして、結局、今も何者にもなれていない私から、あなたたちの着慣れないスーツの背中にそっとエールを送りたいと思います。