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『日本思想大系4 最澄』【ブックレビュー#33】

 このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

はじめに

悠々たる三界は純ら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患にして楽しからず

(p.286)

―あらゆる世界は苦に満ち安らかでいられるものでなく、あらゆるものの生涯は災いばかりで快いものでない―

 いきなり何を書き出すのかと思われたことでしょう。苦に満ちているなどと言い出したのは、これが今回評するものの冒頭部分だからです。評価研究部企画・調査研究課の松坂が今回取り上げるのは、『日本思想大系』(岩波書店)全67巻の第4巻です。

安藤 俊雄、薗田 香融 校注 『日本思想大系4 最澄』岩波書店、1974年

「願文」とは

 この巻は一巻丸ごと伝教大師最澄の文を収めるものになっていて、大師の思想を直に知るのに好適なものとなっています。「温故知新」というのは祖法の教えでしょうが、本書所収の「願文」などは、学びに向かう若き大師の姿勢を表したものとなっていて、大学教育を考える者が新しきを知る良い故となっていると思われます。このような思いを持ちながら、本書、特にこの「願文」のページを繰ってみましょう。

 「願文」は、奈良で仏教を学んだ大師が、それに不十分さを感じ、独り比叡の山に登って修行をしようという、その決意を述べたものです。齢19の頃とされますので、現代においてはまさに大学生の時期にあたります。

自己否定と猛省ー極愚・極狂・塵禿、修行への自覚

 さて、本文を便宜的に区分してみると、四つの部分からなっていると言えます。まずは冒頭に引いた文に始まる部分で、この世界が苦厄に満ちたものであることが述べられます。次いで、「伏して己が行迹(ぎょうせき)を尋ね思ふに…」と大師は自らに目を向け、「無戒」のまま衣食等の施しを受け、「愚痴」のまま時を過ごしてきたことを猛省する部分が続きます。そして大師は次のようにこれまでの自分を表現します。

愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕(か)けり。…

(p.287)

 「極愚」、「極狂」、「塵禿」とまで言い、「底下」の人間だとまで自己否定するのです。そしてその猛省の上に、大師は、仏果を求め仏道に真に打ち込もうとする願文を起こします。「我未だ六根相似の位を得ざるより以遠、出仮せじ」(p.287)を第一の願とする五つの願文です。本テクストの中心部分で、第三の部分といえます。そしてこの願文を述べた後に、仏果を得た後の自らについて願い・決意を述べて終わります。修行の功徳について、「法界の衆生、同じく妙味を服せん」(p.287)と述べるなど、菩薩道の大乗精神の発揮を大師は述べて願文を閉じるのです。

 現代には読み慣れない漢文であり、仏教用語にも満ちたテクストですので、関心がなければ読みにくいことでしょう。ただ、図式的につかめば、まず現状が述べられ、仏果という成果を求めて修行にあたる決意が述べられ、そして成果を得た後のことに触れて終わる、という骨格が容易に見えてくるとは思います。今風に言えば、仏果という明確な「学習成果」のための「学習」というプロセスに入る決意文、要は学習に入る人間のリアルな学習観とも言えるでしょうか。学習成果が強調され、成果に至る手段として学習が語られる今日において、伝教大師のこのテクストは、学習成果と学習というものについて千年以上前の若者が経験したところについて、教えてくれるものだと読むことが可能でしょう。

成果と行為の関係ー「仏果」の実存的な意味

 ただ、こう単純に話を終わってよいのかといえば、そうはいかないように思われてきます。なぜなら、大師の求める学習成果は「仏果」だからです。その「仏果」として究極の智慧、5つの願文中に言葉を当たれば、「理を照らす心」「般若の心」(p.287)だからです。

 仏教における究極の智慧とは、約していうならば、万物には本来自性がないと見て一切の執著を離れた境地といったところでしょうが、そうなると、ここでいう学習(=修行)という行為と、学習成果(=「所修の功徳」(p.287))との関係は、我われが今日大学教育を語るときに念頭に置く関係とは訳が違うと考えざるを得ません。つまり、般若の智慧がゴールだとすると、それは「私」が「私の学び」によって「私のもの」として得た成果というのは違っています。

 本来無自性であることの悟りなのですから、悟った「私」がいてはおかしいわけで、究極的にそこに「私」は存在しないわけです。となると必然に、学ぶこととその成果とは、事実的にはつながっているとしても意味的には断絶していると考えるのが自然でしょう。もちろん、空仮中の三観を一心に摂するのが、のちに大師の広める天台の教えだとすると、「私」というものが霧消してしまうのとは違いますが、それでも即自的な意味での「私」ではありません。

 結局言えてくるのは、「所修の功徳」を目指して修行にあたるものの、大師にとってあるのはただ修行するという行為そのものであり、成果に至るための目的合理的な行為ではない自体的な意味を持った行為のみということになるのではないでしょうか。それ故にこそ、この「願文」というテクストは、先ほど便宜的に分けた区分でいえば、第一から第三の部分が大半を占め、第四の部分はごく短いものです。かつ仏果を得た後について述べるこの第四の部分にしても、「伏して願わくは」などと、自分以外のものの作用を期待するような書き方になっており、「私」というものが主体的にどうであるということではないのです。

 少なくとも評者にはそう読めます。第一から第三の部分で、先に引いたような徹底した自己省察と自己否定をして願文を書いたのが大師ですが、そこからは、(やや古風な言い方をすれば)実存的な意味を込めて修行に入ろうとしているように感覚することができ、修行が修行そのものとして自体的な意味を持ったものとして読めてきます。

現代への示唆ー学びの過程への意味探求

 学習成果を意図した学習という行為を述べた文と見えて、実のところ、成果とそれに至る行為との間に断絶があるということ――このことは、学習成果が強調され、成果に至る手段としての学習が語られる今日において半ばアンチテーゼの如く響くかもしれません。もちろん、般若の智慧を求める宗教者の立場から書かれたもので、これが即、現代の大学教育に通じるという見方はできませんし、するつもりはありません。しかし、成果とそれに至る行為との間に断絶があるということ、そしてその行為そのものに自体的な意味が与えられていると見えること、行為そのものに実存的な意味があるということ、このことは、学習成果が強調され目的合理的な意味ですら学習が位置付けられもする今日にあって、あるいは今日にあるからこそ、とても印象深く感じられ、思考を誘ってやまないように思います。

 学習自体に実存的な価値を見出してはげむこと、このことを今日あらためて実現したいと思うのは評者だけなのかどうか。とにかく、およそ古典は全てそうであるように、大師の遺されたものも読み手の投げかけるものに対していろいろと与え返してくれるものです。書評というより、書評に名を借りた随想のようになってしまいましたが、「願文」を手に取る、あるいは少なくとも何か古典の書籍を手に取るということを、皆様に広くお勧めしておきたいと思います。

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