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『文系と理系はなぜ分かれたのか』【ブックレビュー#42】

このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

はじめに

 みなさんこんにちは、総務部総務課の椹木です。突然ですが、みなさんはご自身のことを「文系」だと思いますか?それとも「理系」だと思いますか?私は「超」の付く文系人間で、小学生の段階ですでに「自分は文系だ」と思っていました。多くの高校では、2年生あるいは3年生に進級するにあたって、文理を選択することになりますが、私は一考の余地なく文系クラスに進み、「もう数学を一生やらなくていいんだ…!」と無邪気(何も考えず)に喜んでいたことを覚えています。

 と、このように、日本では文系と理系という分け方が、個人的な傾向どころか学校教育の場において進路を考える際に選択を迫られるほど、広く、そして深く浸透しています。
 では、この区分は、そもそもなぜ・いつから使われるようになったのか、日本特有のものなのか、そして「学際化」や「文理融合」といった言葉が定着してきた今、これからの時代には不必要となっていくものなのか。これらの問いについて歴史的背景をひも解きながら解説・考察しているのが、今回紹介する、隠岐さや香氏の『文系と理系はなぜ分かれたのか』です。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書、2018年

本書は、著者の専門である科学史の知見をベースに、文系と理系の過去・現在・未来が、以下の5章構成で描かれています。
  第1章 文系と理系はいつどのように分かれたか?―欧米諸国の場合
  第2章 日本の近代化と文系・理系
  第3章 産業界と文系・理系
  第4章 ジェンダーと文系・理系
  第5章 研究の「学際化」と文系・理系

【文系・理系の歴史】

 第1章と第2章は文系・理系の「過去」に焦点を当てています。
第1章では、西洋の学問史について、中世、ルネサンス、そして19世紀までの流れを振り返る内容となっており、歴史のなかで生まれた諸学が、文化的・宗教的背景によってさまざまな経緯を辿り、また、時代によってさまざまな分類が試みられてきたことが分かります。

 歴史を経て、現代の欧米諸国ではどのような区分がなされているかというと、著者はその現状について、「欧米諸国では受験のときに「文系」と「理系」の二つではなく、「人文」「社会」「理工医」の三つ、あるいはそれ以上に分かれるのが確かに普通です。(72頁)」としつつ、一方で、「大学の教育・研究全般を論じる際には、人文社会(Humanities and Social Science、以後HSS)/理工医(Science, Technology and Medicine、以後STEM)と二つに分ける表現が、20世紀後半以降、よく使われるようになりました。(4頁)」と紹介しています。日本ほどハッキリと分かれてはいないものの、欧米でも二つの区分があるということです。これらの区分について、著者は「諸学問を二つに分ける理由はないのでは、そして、本来、諸学は一つなのではないか」という問いを立て、第1章で描いた、諸学が近代的な学問となっていった経緯を以って、自分なりの考えを述べています。両者はいずれも宗教(神)や王権の権威から自律することで近代的な学問となったものの、自律の方向性が異なっており、完全には融合しきれないのではないか、という答えです。紙幅の都合上詳しくは紹介しませんが、この「自律の方向性の違い」が興味深い視点で考察されています。

 第2章では、日本における学問の歴史が解説されています。中国文明の影響を受けつつ日本独自の学問が発展した時代から、西洋の学問を取り入れ急速に近代化が進められていく明治維新以降、そして戦前・戦中・戦後と日本が辿ってきた歴史において、学問が社会との関わりのなかでどのような変遷を経てきたのかがまとめられています。
 この章は、すべての分野を「文」「理」と二分類することになった歴史が紹介されるなど、日本において「文系と理系はなぜ分かれたのか」の経緯が分かる内容となっています。そのうえで、章の終わりで日本は「「科学技術立国」のままでよいのか」という問いが投げかけられ、これからの日本が進むべき方向性は何なのか、読者に考えさせるものとなっています。

【文系・理系の現在と未来】

 次の第3章、第4章は文系・理系の「現在」を見ていきます。
 第3章では、文系・理系の就職活動、産学連携や科学・技術イノベーション政策をテーマに学問と産業界との関わりが、そして第4章では、ジェンダーという切り口から文系・理系の現状が考察されます。2つの章は、誰しもが身近に感じられる話題から始まり、社会的な課題にまで内容が展開されており、「文系と理系はなぜ分かれたのか」という問いの枠にとどまらない内容となっています。

 最後の第5章では、いま現在の教育・研究の現場で起きている「学際化」、「文理融合/連携」の状況が紹介され、学問のあり方は今後どうなっていくのか、が考察されます。言うまでもなく、現代の社会は急激に複雑化が進んでいるわけですが、こうした時代に学問はどう立ち向かうべきか。著者は、第5章と「おわりに」で、「集合知」への期待を述べています。

「文理の区分を含め、私自身はすぐに大きな変化があるとは思っていません。(中略)むしろ、明白な変化が起きているのは、人と人のマッチングや交流のあり方です。(中略)尖った専門性のある人とその間をつなぐ人とで補い合い、集合知を発揮する、という方向の取り組みが今後増えていきそうです。」

(237頁)

「一般に、異なる視点を持つ者同士で話し合うと、居心地が悪いけれど、均質な人びと同士の対話よりも、正確な推論や、斬新なアイデアを生む確率が高まると言われます。そう考えると、文系・理系のような「二つの文化」があること自体が問題なのではなく、両者の対話の乏しさこそが問われるべきなのでしょう。(中略)違いが活かせてこそ、補い合うことができる。集合知が発揮できる、そう思うことから、一歩が踏み出せるような気がしています。」

(250頁)

【終わりに】

 『文系と理系はなぜ分かれたのか』というタイトルから想起される範囲を超えて幅広い内容となっていて、想像以上にこれからの学問について考えさせられる一冊でした。そこまで堅苦しく構えなくても、自分自身の経験や興味のある分野を軸に読んでみても引き込まれる内容です。私は、このレビュー冒頭で「”超”文系人間です」と書きましたが、「それって本当に私が自分自身で選び取ってきたものなんだろうか?」と思わず自分の来し方を振り返ってしまいました(本書第3章参照)。

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