チャータリングとは?アクレディテーションとは? ~それぞれの歴史からルーツを探る~
「チャータリング」、「アクレディテーション」。突然ですが、皆さんはこれらの言葉を聞いたことがありますか? 正直申し上げると、私はこの業界に入るまで聞いたことがありませんでした(笑)また、この記事をお読みいただいている方の中には、大学関係者の方もいらっしゃると思いますので、そうした方にとってはアクレディテーションという言葉は馴染みのあるワードかもしれません。
今回私が基準協会コラム#13でご紹介するのは、本協会が実施するアクレディテーションと、歴史的に深い縁で結ばれているチャータリングというワードのルーツを探り、歴史的背景からそれぞれの違いを考察するものです。
チャータリングはヨーロッパ、アクレディテーションはアメリカが起源となっており、カタカナ表記が多く、読みづらい文章となってしまいますが、最後までお読みいただければ幸いです。
はじめに
はじめに、チャータリングとアクレディテーションがどういう意味をもっているのかについて、説明させていただきます。
チャータリングは日本語で「設置認可」を指し、殊に高等教育においては教育課程や教員組織、施設・設備、財務状況などが一定以上の「量・規模」を備えているかを審査する事前チェックのシステムであると言えます。一方で、アクレディテーションは日本語で言うと「認証」と訳されることが多く、その意味の通り、設置を認可されたのちの大学に対して、「量・規模」よりも「質」の観点から各大学自身の使命・目的を一定の基準に基づいて判定、認証するものと言えます。(詳細は基準協会コラム#9をご参照ください)
難しい説明となってしまいましたが、イメージとしてチャータリングは設置基準を満たしているという「入学試験」の段階、アクレディテーションは基準を満たした上で、質の高い教育を提供できているかの進捗状況を問う「定期試験」の段階と思っていただければ、よろしいかと思います。
チャータリングとは
それでは早速チャータリングから、その歴史を見ていきたいと思います。
チャータリングは大学が他者(権力者)の認可を経て設置されるという考え方のもと、13世紀末頃からヨーロッパで広まっていきました。その歴史は、『大学設置基準の研究』(以下本書)において、主に3つの時代に分類されると書かれています。
すなわち、⑴については、大学がまだ教師や学生が自発的に作った知的集団・知的ギルドであり、自由な競争があり無制約であった時代で、「この時代の大学こそが最も生き生きとした大学であったといえよう」と書かれている通り、大学は国家や政府等の介在がなく、自由に学問が行える場であったと言えます。
⑵については、14世紀頃イタリアにおいて「新しい大学を設立する権限は、教皇ないし皇帝の特権に属し、この特権によらない大学の学位は、非合法的なものとして取り扱われるべきだ」という思想が表れ始めます。これは当時、神学部で学位を取得した聖職者の「質」を周囲に保証するために、教皇が発出する創立特許状を持つ大学の出身であるということが重要であったことから、このような思想が生まれたのではないかと思います。現にドイツ圏などの大学後進地帯の政策として、「新しい大学は、教皇の創立特許状をえて設立されるとき、はじめてイタリアやフランスの一流大学に伍して全欧的な地位と特権を保証される」とある通り、教皇や皇帝が発出する創立特許状によって、その大学の通用性が認められた時代でした。
⑶については、大学の設置認可が国家の手に移っていった時代であり、本書ではイギリスを具体例として取り上げ、大学の設立方式には、
①国王や領主が設立の主体ないしパトロンであり、同時にその認可権者で
もある場合
②融資や地方自治体が設立の主体であって、設置認可権を持つ国王に勅許
を求める場合
の2パターンがあることが述べられています。本書では、②のパターンに触れつつ、市民運動や市議会の活動を通して大学の創立特許状(ロイヤル・チャーター)を取得していく流れが記されています。
また、ロイヤル・チャーターを取得したことによる特権については「イギリスのいわゆる「大学の自治」は、法人としての特権に、教育・研究団体としての諸特権が重なったものだといえよう」と述べつつも、「大幅な自治権を認められた法人としての大学といえども、国王と議会という最高権限のワク内で存在し行為する、という制約は免れていないのである」と記されています。つまり、「大学の自治」は設置認可者である国家によって制限されうるということであり、ここにチャータリングの大きな特徴が見て取れます。
アクレディテーションとは
続いてアクレディテーションについて、その歴史を見ていきます。
アクレディテーションは、19世紀頃からアメリカで発達していった評価システムで、他者(権力者)による承認によってその存在が認められるチャータリングとは異なり、一般的にボランタリーな第三者評価機関が、その機関が策定した基準に則して大学教育の質を保証・認定する行為です。
アメリカにおいてアクレディテーションが普及していった背景として、本書では、
と記されています。
また、上記に加え、
とも記されており、そもそも「大学とは」という根本から定義づけをしなければならない状況が、よりアクレディテーションを必要としたということが述べられています。
こうした状況下で、初期のアクレディテーションの方針が決められていき、その主要目的として「入学要件」(学生や教育内容の水準維持)と「最低基準」(基金、蔵書数、学科数、学級規模、卒業必要単位数など)の2つが指向されるようになっていきます。
しかし、時代が進むにつれてこの「最低基準」に対する批判の声が増していきます。本書では「基準の存在自体が大学の自主性をそこない、徒らに外的、量的な基準によって大学の水準を評価することはできない」、「より高度なレベルにおける成功の精神を解放するため、因習的でいい加減な基準をゆるめよ」といった声があったと述べられています。加えて、1934年当時、アメリカ中西部地域のアクレディテーション連盟の理事長であったH.M.Wriston氏の発言を引用して
と記されています。
このWriston氏の発言こそが、現代のアメリカにおいて普及しているアクレディテーションの考え方であり、今の日本でも行き渡っている考え方と言えるのではないでしょうか。
まとめ
以上、チャータリングとアクレディテーションについて、言葉の持つ意味や歴史を紐解いてきました。
今回の執筆を通して、チャータリングは他者(権力者)からその存在を認められ、周囲にその価値を示すもの、アクレディテーションは大学をその存在意義のために成長改善させていくものだということを感じました。
このチャータリングとアクレディテーションについては、どちらの制度が優れているかという二元論的なものではなく、その地域・文化・風習等によって、また、高等教育に対して国がどのように関与しているかによって、それぞれ適切な効果を発揮するものだと思います。加えて、大学はチャータリングされて終わりではなく、学生に対してよりよい教育等を提供することで有意な人材を社会に輩出していく責任があると思いますので、いずれの制度も有効に活用していく必要があるように思います。
本協会はアクレディテーション機関として、「大学を不断に成長改善せしめるため、大学に外的刺激を与えること」を絶えず行い、高等教育の質向上を目指していきます。
〈参考文献〉
天城勲、慶伊富長編『大学設置基準の研究』、東京大学出版会、1977
(総務部総務企画課 玉水甫樹)