『教養を深める 人間の「芯」のつくり方 』【ブックレビュー#43】
はじめに
みなさんこんにちは。評価研究部国際企画室の伴野です。
皆さんは、自分に教養があると思いますでしょうか。
「自分には教養がある。」と自信を持って言える人はなかなかいないと思います。
また、本当に教養のある人がそういう発言をするかというと、懐疑的です。
そこで、「教養」を辞書で引いてみると、「学問、知識などによって養われた品位」と書かれていました。
つまり、「自分には教養がある。」と自分で言える人は、「自分には品がある。」と言っていることと同義とも言えます。品のある人の言葉とはとても思えません。
だから、「自分には教養がある。」という言葉に疑問を持つことは、無理のない話です。
では、どうすれば教養を自分のものとすることができるのか。
今 回ご紹介する以下の本では、リベラルアーツ≒教養と捉え、東京女子大学の学長である著者が4人の識者と対談する中で、その本質に迫っています。
【目次】
〇第1章 リベラルアーツの歴史点描
〇第2章 「憧れる力」を原動力に
〇第3章 宗教は「学ぶ」ものではない 対談者:五木寛之(作家)
〇第4章 「国語と教養」を軽視する愚かさ 対談者:藤原正彦(数学者)
〇第5章 日本人が「新しい知」を生む時代へ 対談者:上野千鶴子(社会学者)
〇第6章 ChatGPTで教養は得られない 対談者:長谷川眞理子(人類学者)
リベラルアーツの起源
ここで、リベラルアーツの起源について、本書に書かれている内容を要約します。
それは古代ギリシアにまで遡ります。ギリシア語のエンキュクリオス・パイデイア(自由人のための円環的な教育)という言葉がその語源で、人間性全般を広く涵養する教育を意味する言葉だったそうです。
この時代の自由人とは、生まれにより奴隷でない人のことでしたが、今日のリベラルアーツ教育は、生まれのゆえに「自由である」人のための教育から、誰もが「自由になる」ための教育へと変わってきました。
五木寛之氏との対談から
五木氏は、リベラルアーツを「自由を獲得するための戦う技術」と表現しています。戦争下での抑圧的な体験を経験している五木氏だからこそ、制限や拘束から自らを解き放つものとしてリベラルアーツを捉えており、前段に記述した、誰もが「自由になる」ための教育とも符合する部分です。
また、五木氏との対談の中では、ファスト教養について言及されています。
ファスト教養という言葉は、ライターのレジー氏が2022年に出版した著書『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』で提唱したもので、「ビジネスシーンでうまく立ち回ったり、お金を稼いだりするために、教養と呼ばれるものを手っ取り早く大雑把に仕入れていくこと」を指します。
タイムパフォーマンスという言葉が浸透してしばらく経ちますが、ファスト教養はタイムパフォーマンスの親戚のような存在でしょう。しかし、タイムパフォーマンスを重視したファスト教養は、本当に教養と言えるのでしょうか。
五木氏から、
と問われた著者は、こう論じています。
本稿の冒頭では、教養の意味を「学問、知識などによって養われた品位」と位置づけましたが、他人の感想の寄せ集めで品位を養えるものとは、到底思えません。自分で嚙み切れるまで咀嚼し、消化できるまで何度も反芻することで、初めて教養を自分のものにできるのだと思います。
リベラルアーツ:人間の「芯」をかたちづくる学び
本書の中で、著者はリベラルアーツを「人間をより人間らしく育てることを目的とした教育」であり、「人が人であることを貫くために必要な精神の力を養う学び」、また「生涯にわたってもち続ける人間の「芯」をかたちづくる学び」であると説明しています。そして大学の役割について、知識や技能を学ばせると同時に、リベラルアーツを通して学生に「志」を与え、卒業後も胸の奥深くにずっと燃え続けるような「信念の灯」を灯すことだと論じています。
この不確実な時代において、人間の「芯」となる教養の重要性はますます高まっていると感じます。同時に、社会に出てからも絶え間なく学び続ける姿勢こそが、豊かな人生を築くために欠かせないものだと思います。
最後に、本書はリベラルアーツを主題としていますが、図らずとも生成AIの進化に伴う教育のあり方についても論じられています。今回取り上げた五木氏との対談はもとより、他の識者との対談も興味深い内容となっておりますので、興味を持たれた方はぜひ本書をお手に取ってみてください。