大学基準協会と私 #3|寺﨑 昌男(東京大学・立教大学・桜美林大学 名誉教授)
大学基準協会の事務局を初めて訪ねてから60 年以上が経っている。あのころ私は東大の大学院博士課程の院生だった。訪問の動機は、戦後新制大学成立過程研究を始めようとされている指導教官のお手伝いをするためであり、事務的なものに過ぎなかった。1959 年秋のことである。
当時スタンフォード大学と東大教育学部の共同研究が企画されていて、私はその助手の一人として、日本の高等教育改革を展望する研究を手伝う仕事に就いていた。指導教官の海後宗臣教授(故人)から「大学基準協会という場所に行って、どのくらい資料があるか確かめてきてほしい」と言われ、四ツ谷にあった事務局を訪ねたのだった。質素な二階建てビルの中で5、6人の人たちが働いておられた。私は取りあえず『大学基準協会会報』のバックナンバーの寄贈を受けて大学へ帰ってきた。
正直に書くと、その時まで「大学基準協会」という言葉を聞いたこともなかった。「キジュンってどう書くのですか?」と先生に聞いて苦笑されたほどである。基準か規準か、それとも帰順? だが新制大学の成立過程を調べて行くうちに、その協会と基準とがどれほど大きな働きをしたか、特に新制大学と大学院の形を決め、大学設置方針を確定するに当たってどれほど大きな役割を果たしたかが次第に分かってきた。「戦後、日本の大学再編に影響を与えたのは文部省と教育刷新委員会と大学基準協会の三機関だったけれども、占領のもとで文部省は力がなく、この東大の南原繁総長が議長をしておられた教育刷新委員会は総理大臣諮問機関として六・三制の学校体系を設計したけれども、高等教育の実際的な側面について力をふるうことはできなかった。ところが大学基準協会は、大学の形を変えることに一番力があった。というのもこの協会の背後に占領軍というものが付いていたからね」。これが、大学に帰ってきた私に海後教授から行われた説明だった。寂しげな感じの事務局を見てきた者としては半信半疑の思いで講義を聞いていた。
しかしその後研究を進めるにつれて、この講義の真実味が分かってきた。大学基準協会の行ったaccreditation(設置認可後の専門的審査。適格判定とも言われた)がいかに重大な使命を担った行為だったか。そこがつくった「大学基準」というスタンダードがその内容と成立プロセスの双方にわたって新しい大学の理念をいかに象徴的に示すものだったかが了解されてきた。海後・寺﨑著『大学教育』が東京大学出版会から叢書「戦後日本の教育改革」の第9巻としてトップを切って出版されたのは10 年ほど後、大学紛争中の1969 年だったが、旧制高等教育の再編・改革の主役はまさに大学基準協会に結集した日本の大学人たちであったことが分かった。そして、改革の具体面の指導者は占領軍の専門家たち、全体の設計者は教育刷新委員会の識者たち、不本意を抱えながら再編成の要件を形づくって行ったのが文部省であった。
その後大学の教員となった私は、大学基準協会のさまざまな活動に参加した。勤務校の学長の方たちも大学基準協会に関連する仕事があると私に回された。専門教育研究委員会、学制研究委員会、運営諮問会議の委員等々。中でも最大のお付き合いとなったのは『大学基準協会五十五年史』(通史編・資料編、2005 年)の調査編纂活動だった。依頼されてから実に20 年以上経って、2巻の沿革史になったのだが、執筆を依頼された大竹博以降の諸事務局長、刊行時の会長だった大南正瑛・清成忠男の両先生、また研究部諸氏と田中征男氏ほかの編纂委員諸氏も忘れることは出来ない。また、編纂の過程で、戦後教育改革期につくられたさまざまな委員会の議事録や関連資料がいかに重要な史料であるかも分かった。これはぜひ大学基準協会のアーカイブズとして保存・公開して日本の大学界の共通財産にすべきではないかと提案し、事務局や理事会の賛同も経てアーカイブズの立ち上げを進めることができた。その作業を推進してくれたのは石渡尊子氏ほか桜美林大学時代の教
え子の人たちと一部の職員の人たちである。
このように振り返ると、大学基準協会と私のご縁は、研究者としての全期間に及んでいる。私は「大学基準協会」という無二の史料宝庫、その研究の場所を与えられたのである。こちらが貢献したという側面よりも、大学基準協会がさまざまな形で私の研究を促進し、さらに方向づけて下さったという側面の方が大きく深い。どれほど感謝しても足りないほどである。
寺﨑 昌男(東京大学・立教大学・桜美林大学 名誉教授)