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JUAA職員によるブックレビュー#25

 このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

 評価事業部評価第1課の若林と申します。入局以来、一貫して大学評価に関わる業務に従事しております。

 今回私が紹介させていただく本はこちらです。

マイケル・サンデル著、鬼澤忍翻訳『実力も運のうち 能力主義は正義か?』早川書房、2021年

 この本を選んだ理由としては、これまで生きてくる中で活躍している人を見たときに、「実力って言ったって、その実力を身に着けられるような環境にいたからでしょうが」とでも言いたくなるようなことが何度もあったから、では決してなく、格差社会化の広がりが問題を顕在化させたことによると考えますが、教育学においても、能力主義を無批判に肯定することはできない、という研究がしばしばみられるようになってきていると感じていたことがあります。
 また、ネオリベラリズム的な考え方が広く人々に内面化されつつあることで、著者のいうところの下記のような考え方が共有されなくなり、思いやりや他者理解を欠いた社会になりつつあるのではないか、と考えていたことも理由の一つです。

われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。

(323頁)

 この本では、能力主義は、エリートが自らの地位を自分の努力と才能で手に入れたものであり、自らの境遇について、自らがそれに値するものであると理解するように作用する一方、非エリートに対しては、自らの不遇について、努力をしなかった等、自らの要因に基づく必然であるという認識を抱かせ、自尊感情を傷つける作用があることを示し、社会の分断につながっていることを指摘します。さらに、欧米各国において、リベラルあるいは中道左派政党が、能力主義が正しく機能する(努力と才能によらない要素が介在しないようにする)ことを実現するため、機会均等を志向したことにより、さらに非エリート層の自尊感情を傷つけることに結果し、2016年のアメリカ大統領選挙においてトランプ大統領の誕生につながったと分析しています。
 著者は、このような、能力主義が社会の分断をもたらすという問題を受け、能力主義的な成功概念の中核として労働と教育をあげ、そのあり方を再考しています。
 教育に関しては、高等教育における能力主義の問題を大きく取り上げています。その記載からは、日本の高等教育業界が(うまくいっている事例として)比較対象として取り上げるアメリカの高等教育においても、共通した問題があることが見えてきます。様々あげられていますが、興味深いと感じたのは保護者の経済状況が得点や受験対策の可否に密接に関係することとして、以下の具体的な説明がなされています。

SATのような標準テストは、それだけで能力を図るものであり、平凡な経歴の生徒も知的な将来性を証明できるとされている。だが実際にはSATの得点は家計所得とほぼ軌を一にする。生徒の家庭が裕福であればあるほど、彼や彼女が獲得する得点は高くなりやすいのだ。
 裕福な親は子供をSAT準備コースに通わせるだけではない。個人向けの融資カウンセラーを雇い、大学願書に磨きをかけてもらう。子供にダンスや音楽のレッスンを受けさせる。フェンシング、スカッシュ、ゴルフ、テニス、ボード、ラクロス、ヨットといったエリート向けスポーツのトレーニングをさせる。大学の運動部の新人として採用されやすくするためだ。

(22頁)

 日本においても、学生の多様な能力を図るとして、学力試験のみによらない入試形態が広まりを見せていますが、アメリカの事例から考えてみると、「学力試験に対する傾向と対策を行うことができた裕福な家庭の学生」が入学してくるか、「入学試験で求められる多様な能力に対する傾向と対策を行うことができた裕福な家庭の学生」が入学してくるか、の違いであって、結果としては保護者の経済状況が学生の入学の可否を左右するようにも思えてきます。
 さらに、日本において、学力試験を通過するための「傾向と対策」が過激化してその副作用が「受験戦争」として問題化されましたが、入学試験で求められる多様な能力に対する「傾向と対策」においても、弊害があるようです。

裕福な親は名門大学への入学を目指すに際して、子供を強力に後押ししてやれる。しかし、そのために子供の高校時代はストレスに満ち、不安だらけで、寝不足に悩まされる試練の時期となることが多い。大学レベルの科目履修、テスト準備の孤児授業、スポーツの練習、ダンスと音楽のレッスン、山ほどの課外活動や公共奉仕活動を、たいがいは孤児向け受験コンサルタントの助言と指導の下にこなさなければならないためだ。

(256~257頁)

 ここで指摘されている問題点は日本の「受験戦争」における弊害として指摘されたことと共通するものがあるといえるのではないでしょうか。
 このような問題等を生じさせる、能力主義のみに基づく入学者選抜の代案として、著者はなんと、くじ引きを提案しています。

四万人の出願者のうち、ハーバード大学やスタンフォード大学では伸びない学生、勉強についていく資質がなく、仲間の教育に貢献できない学生を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは三万人あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。

(266頁)

 この代案の効果として以下のようなものを挙げています。

適格者のくじ引きを支持する最も説得力のある根拠は、能力の先制に対抗できることだ。適格性の基準を設けて、あとは偶然に任せれば、高校生活は健全さをいくらか取り戻すだろう。心を押し殺し、履歴を詰め込み、完璧性を追求することがすべてとなってしまった高校生活が、少なくともある程度は楽になるだろう。能力主義によって膨らんだ慢心をしぼませる効果もある。頂点に立つものは自力で上り詰めたのではなく、家庭環境や生来の資質などに恵まれたおかげであり、道徳的に見ればくじ運が良かったに等しいという普遍的真実がはっきり示されるからだ。

(267~268頁)

 この著者の提案を受けて思い出しましたが、国立大学の附属小学校の入学試験ではくじ引きがあると聞いたことがあります。「実力」ではないことで合否が決まるということは一見腑に落ちないと思われがちです。しかしながら、よくよく考えれば、人生というものは偶然の左右する要素のほうが多い、否、偶然の積み重ねといえるのではないでしょうか。その現実を無視してすべて自分の実力でコントロールができると思わせてしまうと、能力主義を信奉し、成功しても失敗しても自分の実力であるため、努力し続けなければならないという強迫観念に苦しめられる人生となってしまうと思います。その意味では、この国立大学の附属小学校の入学試験でのくじ引きは、意図しないものでしょうが、人生の本質を児童に教えるという教育的効果があるものなのではないか、という考えにも思い至りました。

 最後は少し脱線しましたが、この「実力も運のうち」は現代社会を生きる我々が知らず知らずに内面化している能力主義の問題点を多面的に描き出した本となっています。弊害を理解するためにも、そして、自らのとらわれを自己認識し自らを開放するためにも、一度お手に取ってみてはいかがでしょうか。

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