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『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』【ブックレビュー#34】

 このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

 皆様こんにちは。総務部総務課に在籍しております、加々美と申します。2度目のブックレビューで、今回私が紹介する本はこちらです。

ハン・ドンイル著、本村凌二監訳、岡崎暢子訳『教養としての「ラテン語の授業」――古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流』ダイヤモンド社、2022年

「ラテン語」は死語?

 本書は、韓国出身で、東アジアで初めて、カトリック教会の司法権の最高機関であるロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士となり、その傍ら、ソウルの大学で教鞭をとるハン・ドンイル氏による著作です。内容は、著者の担当するラテン語講義に絡めて、ラテン語の格言や古代ローマ人の文化習俗をテーマに複数の章が設けられ、それぞれに著者の解説が述べられています。

 さて、ラテン語について、インターネット等で調べてみるとおおむね以下のように書かれています。
「各ヨーロッパ言語の源泉でありながら、現在はもはや日常的に使用されることはなく、カトリック教会の公用語や学術用語などの限られた場面でのみ使用される」
 いわば「死語」としての扱いが一般的な認識であるようですが、時折、格言として登場することもあり、死してなお脈々と輝き続けている印象を持ちます。

 例えば、「結果でどうなろうとももう後戻りはできない」といった意味合いの「賽(さい)は投げられた」の言葉は今も時々使われますし、「自分がいつか死ぬことを忘れるな」といった意味合いの「メメントモリ(memento mori)」についてはラテン語の発音のままで今の時代にも登場します(ゲームアプリの名前としても使われているようです)。

 当時の格言がラテン語の表記のままで今の時代にも語られる、ということは、そこにはとても深い洞察が含まれているからなのだろうという印象を以前から持っていました。そこでその内容に触れるための何らかのきっかけを得たいと思い、本書を手に取り、読み進めることにしました。

「たゆまぬ習慣」から見えてくるもの

 本書の各章のうち4番目の章(49頁)で著者は、古代ローマ帝政期の哲学者セネカの格言「私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ」を引用した講義について、言語学習の本質と絡めて解説しています。その冒頭において以下のように述べています。

 まず、言語学習について語る上では「言語は勉強ではない」という逆説的な命題から説明しなければならないからです。それは言語が、ほかの学問のように分析的な学習で学ぶものというよりも、たゆまぬ習慣を通して身につけていく性質を持っているからです。

(49頁)

 「学校のためではなく、人生のために学ぶ」と言われても漠然としていますが、それを言語学習と絡めて考えるとどうなるのでしょうか。著者が示す「たゆまぬ習慣」という言葉がポイントとなりそうです。
 著者はここで、一例としてラテン語の発音の細かな違いに注目します。著者は学会での実務の経験から、学術用語として使用されるラテン語の発音が「古典式発音」と「スコラ発音」とで異なっていることを指摘しています。

 それは具体的には、古代ギリシャ・ローマ以来のヨーロッパ文化の正統な継承者であると自負するか、それとも逆に、かねてよりローマに「蛮族呼ばわり」されてきた立場から近代にヨーロッパ文化の主導権を新たに握るに至ったか、というそれぞれの異なる立場の違いが「たゆまぬ習慣」となり、次第に発音の違いとなって現れているとのことです。

 そして、「ラテン語の発音ひとつとってみても、そこには単なる言語的側面のみではなく、それぞれの国が歴史をどのように眺めているのか」(54頁)が反映されているという趣旨の指摘をしています。
 「たゆまぬ習慣」に支えられて、「死語」たるラテン語がいまだに生きているという一例を示しているようでもあります。著者はまた、言語学習に留まらず、他の学問にも視野を広げ、使い捨ての知識ではなく、自分を表現する手段や世界を表現する枠組みを得るべきだと下記によって述べています。

 「言語は勉強ではない」と述べたことは、言語の習得的、歴史的な性質のせいでもありますが、もっと注意すべきは、言語の目的のためです。「言葉を何のために学ぶのか」のほうがずっと大切なのです。(略)
 セネカは「学校のためではなく、人生のために学ぶのだ」と説きました。今、私たちは言語学習の目的をどこに据えるかを考えなければなりません。(略)
 言語学習の目的を語ることは、ほかの学問をする上でもよき羅針盤となってくれます。知識を得る行為そのものが学問の目的になってはいけません。学問とは、知るだけに留まらず、その知の窓から人間と人生を見つめ、より良い観点と代案を提示するものでもあります。
 これこそが、「私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ」という言葉通りの勉強のあり方となるでしょう。

(56頁)

「学校のためではなく、人生のために学ぶ」

 以上の著者の主張に従って、自らを振り返ってみると、子どものころから決まった時間に決められた授業科目を受け、その習得度合いを測るために、点数で評価される試験を受けるなど、学校の制度に無意識のうちに従ってきたように思います。

 著者の解説するラテン語の格言に触れることで、学校の規則の枠内で、「学校のため」に学んでいた面が多いことに気づかされました。と同時に、「人生のために学ぶ」ことができていたか今一度考え直すきっかけにもなりました。加えて、著者によって引用されたセネカの格言について、機会をみてその他の書籍などにもあたり、より深く知ってみたいと思いました。

 本書では、ラテン語の言語学習をきっかけとして紐解いていく内容でしたが、その他の分野でも、「学び」との出会いによって、物事を別の視点から観察するきっかけになるかもしれないと感じました。それが、日々の生活を変えていく力、延いては人生をも少しずつ変えていく力につながっていくかもしれない、ということにも気づかされました。その他にもラテン語の格言が登場し、様々な知見を得ることができる一冊となっています。

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