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『社会人大学院教育がひらく科学的知識創造』【ブックレビュー#38】

このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

 こんにちは。評価事業部評価第2課の松原と申します。評価第2課では、法科大学院やビジネススクールをはじめとした9分野の専門職大学院、そして獣医学・歯学の分野別の評価を担当しています。
 2度目のブックレビューにあたり、せっかくなので、自分の担当業務に近いものにしようと専門職大学院に関係する書籍はないかな…と本協会の書庫を眺めていたところ、本書のタイトルが目に入ってきました。

豊田香『社会人大学院教育がひらく科学的知識創造』新曜社、2022年

 昨今、リカレント教育・リスキリングの重要性が政策としても叫ばれるなか、社会人が大学院に進学するという選択肢は、依然として「意識の高い」一部の職業人のキャリアパスにとどまり、メインルートになるまでには至っていないように思います。働きながら、もしくは休職等で時間を作って進学するという選択肢が取りにくい現代の日本において、大学院教育の重要性とのギャップをどのように埋めていくかを考えるきっかけになるのではないかと、今回のブックレビューで本書を取り上げることにしました。

 本書は、著者の東京大学大学院教育学研究科の博士論文をベースに、学術論文に触れたことがない方や専門外の方でも読みやすいよう加筆修正を加えた解説書という体裁です。著者の豊田香先生は、大学卒業後に実務経験を積んだあと、大学院において研究に携わり、現在は拓殖大学で特任講師を務めていらっしゃいます。

日本人の知識レベルの見劣り

 日本の社会人の知的レベルは、主に大学院教育で修得する科学を扱うための専門的な知識において、先進諸国の標準からかなり立ち遅れています。科学技術が急激に進歩する時代において、現在日本には、政治、経済、生活すべてにおいて、科学技術を管理できるだけの能力をもつ社会人の数が、国際的に比較して大きく見劣りをしているということです。
※本レビュー筆者注:社会科学・自然科学など科学性・体系性を備えた知。たとえば「心理学」「経済学」などの各分野における理論や知識。

(1頁)

 さて、書き出しはなかなかインパクトのある問題提起から始まります。
本書は、この問題に対し、社会人に対する大学院教育にはどのような意味があり、教育を受けた社会人の内部では何が起こるのかを教育学の視点から捉え直し、その価値の向上に資することを目指すものです。

 まず、著者は、「科学技術の進展や社会・経済のグローバル化に伴う、社会的・国際的に活躍できる高度専門職業人養成へのニーズの高まり」(文部科学省)を踏まえて導入された「理論と実務を架橋した教育」を基本とする専門職大学院を中心とした社会人に対する大学院教育が、その青写真に反して量的拡大が滞っている現状を指摘しています。また、その原因の一つとして、マクロレベル(国家や国際機関)・メゾレベル(企業等と大学院)・ミクロレベル(個人)の間で、社会人大学院教育の成功モデルが共有できていないことがあるとしています。

 この状況を打破するために、著者は、「理論と実務の架橋」とは個人間・個人内の「知識移動」の成功であると定義し、ビジネススクールでの事例研究を通して、そこでの知識移動がどのように行われているかを分析しています。そして、「トリプルループ学習理論」を発展させ、社会人が大学院で学び直しをする人生モデルを提示しようとしています。

トリプルループ学習理論

 トリプルループ学習理論の詳しい説明は本書第3章に書かれていますが、非常にざっくりまとめると、以下のような理論であると私は理解しました。

すなわち、人が扱うことのできる知識を、①抽象度が高く研究者間で知識創造を行う純粋科学領域である「科学(S)ループ」、②学術知と経験知のはざまで、科学を社会において道具的に使用する仕方を扱う「科学技術(T)ループ」、③一般市民同士による経験的形式知と暗黙知の領域で行われる「経験(E)ループ」の3つの学習ループに分類し、これら3つのループが連関することにより個人間・個人内で知識移動が生じて、新たな知識の創造・生成につながっていくとするものです。

 著者は、これを援用して日本における大学と社会の間での理想的な知識移動、つまり「理論と実務の架橋」の成功モデルを提示することで、日本における社会人大学院教育の発展を願っています。

大学院教育って必要?

 本書で指摘される「日本社会では、社会人が大学院で学ぶことの意義が理解されていない」、つまり「科学的知識に価値をあまり見出していない」という問題提起は、少なからず社会経験を持っている方であれば、1度は感じたことのある感覚ではないでしょうか。

 本書を読み進めながら、いわゆる「中堅社員」レベルの友人数名に、大学院教育への興味や自他問わずの経験を聞いてみました。回答としては、あまり積極的ではない姿勢が多く、理由としても「仕事に役立つと思えない」「それ以前に時間がない」と、大学院教育に対して必要性や重要性を見出していないようです。居酒屋談義ではあるものの、おそらくこれが日本における多くの社会人の認識かと思います。

 その一方、経営系専門職大学院認証評価では、実際に大学を訪問し、通っている院生にインタビューをする機会がありますが 、彼らからは、大学院教育に対する期待や、そこでの教育を通じた学習成果の実感について耳にします。

 人口減少や技術革新などに直面しているこれからの産業発展においては、一部の「意識の高い」社会人のみならず、多くの社会人が、経験知だけにとどまらず科学的知識を扱えるようになることがカギになるのではないでしょうか。

 本書は、「今さら大学院に行く意義は?」「理論と実務の架橋って一体?」「専門『職』大学院なのに研究って必要?」といった、社会人の大学院教育に懐疑的な人にとって疑問であろう点について考えるきっかけを提供してくれるものです。社会人大学院教育について、ポジティブでもネガティブでも、何らかの意見・関心を持つ方には、ぜひ本書を読んで議論に入っていただければと思います。

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