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JUAA職員によるブックレビュー#5

 このコーナーでは、大学基準協会職員が自らの興味・関心に基づく書籍等を紹介しつつ、それぞれが考えたことや感じたことを自由に発信していきます。大学の第三者評価機関に勤める職員の素顔を少しでも知っていただけたら幸いです。なお、掲載内容はあくまで職員個人の見解であり、大学基準協会の公式見解ではありません。

 企画・調査研究課の松坂と申します。人生史において認証評価は3巡目、はや15年もここにいる古株の一人になってしまいました。入職以来先輩方には様々な本を教えられ、少しずつ勉強してきましたが、今回はそんな本ではなくて学生時代の一冊から。

E.フッサール, M.ハイデッガー, M.ホルクハイマー 著, 『30年代の危機と哲学』, 清水多吉, 手川誠士郎 編訳, 平凡社(平凡社ライブラリー)

 書棚の前に立って、ふとこの本に手を伸ばしてみました。昔から本には購入日を書く癖があるのですが、これには平成15年8月の日付がメモされています。今はなき郡山市のT書店で購入ともあり、だんだんと夏季休暇で帰省した学生時代の記憶が呼び出されてきます。あの夏も確か暑かったような。

 さて、『30年代の危機と哲学』はアンソロジーであって、様々な哲学者、思想家の文章が収められたものです。そのひとつがM.ハイデッガーによる「ドイツ的大学の自己主張」であり、1933年に氏がフライブルク大学総長就任時の講演内容にあたります。この「ドイツ的大学…」は、つとにさまざまに取り上げられ論じられてきました。とりわけナチス政治との関わりというスキャンダラスな文脈で述べられることも多いといえます。たしかにここでは、学生の義務としての「勤労奉仕」「国防奉仕」「知的奉仕」が言われていたり、「(ドイツ)民族」(Volk)という語が無数に用いられキーワードとなっていたりします。表題にもある「ドイツ的大学の自己主張」について、まさに何と言っているかを見てみると、それは「その本質にむかおうとする本源的かつ共同の意志」であって、さらに「学問の意志をば、自らの国家において自らを知る、このような民族であるドイツ民族に課せられた歴史的=精神的負託への意志とすること」などといわれております(p.104)。表面的に見れば、時代に掉さす右派的主張のように受け取られてくるのも分からないことでありません。

 しかしながら、「学問の意志をば」とある「学問」とはそもそも何なのでしょうか。ハイデッガーの言うところに耳を傾ける必要があります。真の学問の存立条件を問うてギリシア哲学開闢に自らを置くことと述べていますが、氏によれば、古代のギリシア人は「知は必然よりもはるかに無力である」ことを知っていた人たちであり、「まさにそれゆえにこそ、知は至高の反抗を尽くさねばならない」ことを心得、行ったのだとされています(p.106)。我々を取り巻くものに対し「至高の反抗」として人間の存在をかけて挑む、それがギリシアにおいてはなされていたのだ、と。既知の通り、ハイデッガーにとり我われ人間とは、自己投企(Entwurf)的存在であって、自己を常に前に投げ出しつつ世界を了解しながら生きるものです。つまり、世界を世界として在らしめ真理を示すということは、我われが存在することそのものと関わる根源的なものであり、決して表面的な楽しみなどではありません。それゆえに、ギリシア人の学問=観想(θεωρία)の持つ意味は、「実践を理論に同化することにあったのではな」「理論じたいを、まことの実践の、至高の実現とみなすことにあ」り、「ギリシア人にとって学問とは<文化遺産>ではなく、民族=国家的現存総体を、もっとも内的に規定する中枢である」(pp.107-108)のです。学問するというのは我々の現存総体を内的に規定する中枢であって、それゆえにこそ「歴史的=精神的負託」として引き受けねばならないわけです。それをドイツ民族というものに寄せて考えるとはいえ、ハイデッガーの学問論、真理論の根底にはこうした本源的な思想史的思惟があります。

 存在そのものの峻厳さに直結するような学問論がベースにあるから、ハイデッガーの主張は「口先だけの<アカデミーの自由>」批判としても(p.113)、大学での学問を「<お上品な>職につくための、退屈な速成訓練」と見ることへの拒絶(p.114)としても展開されてきます。学問の自由は「意図や傾向の恣意・放縦、行動やふるまいの無制約」などでありえず、大学の本質をめぐる「掟」を自らに課すことのうちにはじめて自由があり、知的奉仕があるのだ、と(pp.112-113)。

 ハイデッガー=ナチス擁護者としてのスキャンダラスで片面的な読みを超えるためには、ここに見た学問論、真理論を再度確認することが重要です。しかしながら、思想はやはり歴史の中におけるものであり、むしろ超時代的な学問論の目でのみ迫ってあまりに純化するのであれば、それはハイデッガーの心に反することだとは思います。「西欧の精神的エネルギーが終焉し、その像は破れ、命脈の尽きた文化のかげが崩れ落ち、すべてのエネルギーは混乱に陥り、狂気に息たえんばかり」の時代状況において、「われわれが歴史的=精神的民族として、われわれじしんをなおも、ふたたび意志するのか――それとも意志しないのか」という問いを投げかけねばならぬところに、氏は立たされていたのだから(p.120)。そしてそうであるがゆえに民族というものを否応なく関係させて学問を論じざるを得なかったのだから。

 いずれにせよ、大学基準協会のブックレビューというこの機会にあって、やはり気になるのはその学問論です。学生時代の私は、次の部分などに線を引いていました。

学問とは、自らをつねに秘匿している存在するもの全体のただなかで、問いつつ立ちつくすことである。この行動的耐待は、その時運命を前にしての、自らの無力を知りつくしているのだ。(p.108)

 「問いつつ立ちつくす」、「行動的耐待」ということ。そこにあるのは孤独感、緊張感です。そして「運命を前にしての、自らの無力」を知るという峻厳さ。学生時代の私は、こうした文句に、半ばロマン的な情緒だったけれど感銘を受けたのを覚えています。そして、学問に対する敬意を新たにしたように思い出されます。恥を承知でいうと、法学部に籍を置きながら実定法の勉強はまことにおろそかで、今でいう「DPに掲げる学習成果」達成もおぼつかない非模範的学生だったのですが、それでも大学に入って感じていたのは知の府の持つ圧倒的な権威であり、そして学問の深淵をのぞき込む緊張感や高揚感、少なくともそうしたものへの憧れでした。ハイデッガーのこのような言葉は、そうした私をさらに鼓舞するものがありました。

 「学習成果の可視化」が言われ「コンピテンシー修得」が無上の格率となる中にあって、現在の学生は、こうした孤独感、緊張感、峻厳なるものを前にする感情といったものを抱く余裕はあるのでしょうか。ラーニングコモンズなどが整備され随分と素晴らしい道具立てのもと勉学に向かえておりますが、こうした現在の学生は「ドイツ的大学の自己主張」をどのように読むのでしょうか。平成15年の日付を見ながら、今の学生のことを考えるのでした。

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